真昼の不思議な物体

film
©Kick the Machine Films 画像提供=山形国際ドキュメンタリー映画祭

監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン 脚本:タイの村人たち 撮影:プラソン・クリンボーロム 編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン 録音:ティカデート・ワッチャラタニン、シィロート・トゥンスック、パイシット・パンプルックサーチャー 製作:ミンモンコン・ソーナークン、グリッティヤー・ガウィーウォン

フィルムは物質。

冒頭画面であまりにもスクラッチノイズが多かった。一瞬CGかと思った。だが、たぶん違う。本編が始まると、ノイズは急に少なくなったからだ。全く無くなったわけではない。35mm フィルムで上映された映像は、フィルムが物質であり、映画はそこを通過した光であったことを思い知らされる。モノクロでコントラストが強く、ハイキー気味で撮られている映像は、解像度によるざらつきを目立たせ、それは忘れ去られた自分の、遠い記憶のようだ。

物語は、他のアピチャッポン・ウィーラセタクン作品と同じように展開する。どこか曖昧で、辻褄は微妙に合わない。それは全ての作品で共通する感覚だ。たが、この作品はどこからがリアルで、どこまでが作劇されたものか判別が難しい。登場人物が話すストーリーは、話者によって恣意的に進むように見え、それを作者が追っていくように演出されている。たぶん見た人に『この映画はどんな話か?』と聞いたならば、それぞれの違った解釈で語られるだろう。音声も意図的にノイズをのせている。時には環境音だったり、アナログレコードの音楽だったり様々だ。そういう意味では、映像と音で豊穣な意味が発生する場を創出していると言える。あえて言えば、悪夢ではない夢のような作品だ。不思議な物体の出現以降は、まさにそう感じる。

この演出がアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品の魅力だ。頻繁に出現する物語の飛躍や省略があり、観客はそこに意味を見つけようとする。初長編作品から現在まで連なり存在する、作家性というものなのだろうか。

余談だが、病院での診察シーンが他の作品にも比較的多く出てくる、何故だろう。

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